特集 四川大地震からの復興

震災から10年

2008年、中国四川省で発生した未曾有の大地震。成都市にあるコベルコ建機グループの拠点も被災したが、自社の復旧と同時に、地域の復興に力を注いだ。支援は継続し、社員の声でCSR委員会も立ち上がった。それから10年、形を変えながら社会貢献は続いている。心の傷とともに多くの気づきやきっかけにもなった震災からの復興を振り返る。

建機メーカーとしての使命を胸に

神鋼建機(中国)有限公司
AS本部 副本部長
李朝明

2008年5月12日、マグニチュード8.0の大地震が中国四川省を襲った。地域は壊滅的な状況となり、震源から90kmの成都市にあるコベルコ建機グループの2つの拠点も被災。幸い被害が少なかったことと、社員の責任感と団結力で工場は驚異的なスピードで再稼働を開始。
そして同時に、被災地への復興支援に積極的に取り組んだ。いち早く建機を提供し、義援金の寄付もした。しかし見えないところで力を入れたのは、被災地で稼働し続ける建機のサポートだった。

震災復興チームのリーダーだった李朝明は当時を語る。「建機メーカーとしてすべきことは、復興に不可欠なショベルをつくることと、ショベルの稼働を支えること。それが私たちの復興支援です」。
サービスマンを被災エリアの各地に派遣。現場でのトラブルにすぐ対処できるように泊り込み、テント生活は短いところでも1ヶ月に及んだ。被災者に寄り添い1分1秒でも早い復興を目指した取り組みは、人に、社会にやさしいコベルコ建機グループのCSR活動の姿勢とも重なる。

復興支援活動実績

被災地支援活動

甚大な被害を受けた成都市に対して、被災地の復興支援として油圧ショベル2台(20tクラス、25tクラス)、ホイールローダ4台を震災翌日に寄贈しました。また、(株)神戸製鋼所およびコベルコ建機グループ全体で、義援金100万元の支援を行いました。

慶興神鋼小学校の再建と支援

成都市による被災した小学校の再建復興計画に加わり、震災で全壊した彭州市の小学校の再建を実施。震災から約1年半後の2009年9月から新校舎での授業が行われました。学校内の備品や遊具などの寄贈も行い、継続的な支援を続けています。

(2009~2017年)

植林活動

震災で崩れた山の整備のため、地域の植林活動に参加しています。2011年にはJICA(独立行政法人 国際協力機構)と四川省の共同プロジェクトに協力し、その後も各地の植樹祭に多数の従業員が携わり、森林保護を積極的に進めています。

(2011~2014年)

仲間たちのサポート

四川格瑞特華業工程機械有限公司
董事長
袁鴻夢さん

2001年よりコベルコ建機の販売代理店。社員105人で、四川地区に6支店を展開している。

支援内容24時間体制の無償修理/無償の部品提供/義援金

ショベルを動かすため、修理も部品も無償で提供

震災が起きたとき、たまたま3人のサービスマンが仕事で現地にいました。状況を聞いて、彼らにはそこに残るように言い、ほかのサービスマンも各地に派遣。十数人がテントで過ごしながら被災地での建機トラブルに対応しました。修理も部品も無償です。
場所によっては軍などの関係者以外は新たに入れませんから、軍の人が的確に作業できるよう、その場で機械の特徴を教えることもありました。サービスカーを走らせながら、出会ったコベルコユーザーと互いに声を掛け合って、その場で修理をしたり、部品を差しあげたりすることもあったようです。

支店に部品を買いに来られた方にも、少しでも復興の助けになればと全て無料で提供。ショベルの貸し出しは、予想できる交換部品を多めにつけてお渡ししました。被災地で建機を動かすためのサポートはできるだけやりましたね。何かをやらずにはいられない心境でした。

彭州市鑫恵建築機械租賃有限公司
董事長
呉運富さん

2008年に起業。現在は7人のスタッフと3台の中型ショベルでさまざまな現場に向かう。

支援内容機械の無償貸与/住民の救出/瓦礫の撤去/道路の修復

軍の指揮下で被災現場の救助・復旧活動に参加

家も会社も被災エリアにあり、地震直後に軍の主導で救援と復旧作業が始まりましたので、我われは志願して軍の指揮のもとで活動しました。最初は人の救出。倒壊した建物の瓦礫をショベルで撤去して、埋まった人を助け出すのです。震災直後から1週間、オペレータを交代しながら捜索をし、数名を助け出しました。その後は道路の修復作業です。燃料も全て自前ですが、何かしなければという強い気持ちが原動力でした。

川が増水して、向こう岸に人が取り残されたこともありました。流れは速く、川の底は瓦礫だらけだったので、ショベルの背中に乗せて救出しました。建機は高さもありますし、悪路も平気ですからね。何度も往復して100人以上を運びましたよ。悲惨な現場でいろいろな活躍をしてくれたショベルは私の誇り。人生の大切なパートナーです。

※部署名は取材当時

復興支援の最前線から

災害からの復興に建機は欠かせない。しかし山間にある被災地への持ち込みは危険が伴い、稼働環境も過酷だ。
ショベルの被災地支援を縁の下で支えた社員たちに現場の話を聞いた。

左から
神鋼建機(中国)有限公司 AS本部 技術部 技術課 徐聰
AS本部 部品部 部品企画販売課 程晏偉
営業本部 営業業務部 製品管理課 将超

1,000km離れた東部も揺れた

地震のときには、どこで何をしていましたか。

徐:私は杭州(上海から南西150km)でサービスを担当していました。事務所で仕事をしていたら揺れたので、すぐにインターネットで調べたんですが、ショックでした。

程:同じくサービスマンとして、石家庄(北京から南西200km)の現場で機械のデータを取っていました。地震とは気づきませんでしたが、少し揺れました。事務所に戻ってニュースを見て初めて知ったんです。とても現実とは思えませんでした。

将:私は成都の営業本部で物流管理をしていました。地震が起きたときは建物の中にいたのですが、かなり揺れたのでみんな慌てて建物の外に避難。怖かったですね。会社は3日間休業して、5月15日から再開しました。

ショベルを被災現場へ

皆さんの担当した災害支援を教えてください。

将:再開翌日の16日にはコベルコ建機グループの最初の支援として、SK260とホイールローダを寄贈しました。私はそれを被災地まで届ける役目でした。さらに、寄贈ではないのですが、政府からミニショベル17台の注文がありました。被災地は山間部だったため、土砂崩れや道路の崩壊で大型ショベルを持って行けない場所も多く、小さい機械が多く必要だったんです。5月20日に成都からの出荷分13台を、責任者として運送しました。

徐:残りの4台は上海から持っていったんですが、出荷手続きを私が担当しました。

被災地へ運ぶために、通常とは違うことがありましたか。

将:運送車7台にショベルを2台ずつ載せて、前後に誘導車をつけた計9台の車列を組みました。通常、中国ではショベルの運送に誘導車をつけないのですが、道路の状況も分からず危険なので、前後ともにつけて、先導を私が務めました。

サービスの支援はどうでしたか。

程:5月20日に各地から成都にサービスマンが集められたんです。会社はそれまでに、被災エリアにある187台全てのショベルの状況を調査していて、エリアごとにサービスマンが2人1組で派遣されました。私も部品や道具をサービスカーに押し込んで、現地に行きました。地震で壊れた機械の修理やメンテナンスの後も、そのまま現場に泊り込んで、復旧活動を続ける建機をサポート。3ヶ月くらいテント暮らしでしたね。

徐:私は販売代理店のサービスマンと一緒に被災地に行きました。瓦礫の撤去や、人の救援、道路の修復など、ショベルはとにかくフル稼働です。建機が動かなくなったら、その場所の復旧作業がストップしてしまうので、私たちも必死でした。

過酷な環境で稼働するショベル

通常の故障やトラブルと違うのはどんなところですか。

程:地震による故障は、物が倒れてきたり、ぶつかってきたような損傷が目立ちました。ホースが潰れるなど普通あまりないのですが、このときはたくさん見ました。

徐:被災地で活躍中の建機は、震災後の特殊な環境の中で休みなく稼働しているので、ダメージを受けているものが多かったですね。しかし、とにかく動かしたいから、無茶な使い方をしてしまいます。燃料も不足していたので、粗悪なものを使っていました。オイルは真っ黒でドロドロ、ホースのシールも傷んで油漏れしたり。瓦礫や土の埃がすごいので、フィルターもすぐに詰まります。

将:壊れるかもしれない使い方でも、動かすしかないんですよね。私がショベルを運んだときも、途中の道が半壊状態で、そばに建機が待機して、昼夜問わず壊れるたびに直していました。

徐:みんな気持ちは同じ。私たちも「一刻も早く」を一番に考えて修理していました。

危険と隣り合わせの支援

危険や大変なことがありましたか。

徐:ダムの亀裂や土砂崩れの多発で、堰止め湖が決壊しそうだったんです。日を追うごとに水位がぐんぐん増して、地域によっては人が避難しました。その近くにも現場がありましたから、不安はありました。

程:あちこちで道路が寸断されているので、車は途中までしか行けず、そこから歩いて現場に行くというケースもたくさんあったのですが、修理を終えて車まで戻るときに土砂崩れで道が通れなくなって車にたどり着けず、20kmくらい歩いたことがあります。余震も多くて道路が使えないことはしょっちゅうでしたね。あとは、蚊の多さに悩まされました(笑)。

道路が通れないと、ショベルの運送も危険がありそうです。

将:がけ崩れなどの危険はあったものの、幸い巻き込まれることはなかったです。ただ予想以上に時間はかかりましたね。ミニショベルを運んだ場所は成都から200kmくらいで、普通なら3~4時間で行けるところなんですが、地震で道がなくなったので迂回して、さらにその迂回路もたびたび崩れるんです。直しては車を通す、崩れては直す…を繰り返していましたから、現地入りするまで丸4日かかりました。現地も混乱していて、引渡しに3日、帰りは徹夜で2日。普通なら1日で終わる行程が、10日近くかかったんです。

人と社会へのやさしさ

災害支援に関わって、今どのように感じていますか。

将:中国では、危険な被災地にはまず軍が入ります。なので住民は軍の人を見ると助けが来たと分かるんです。その次がショベル。「ショベルを見て安心した」と被災者の方に言われたのがうれしかったです。家を建てたり、道路をつくったりするのは「ワクワクすること」ですが、それ以外に、ショベルが人を「安心させるもの」という存在であることに感動しました。改めてショベルの存在意義を感じました。

徐:被災地では燃料が不足していました。同じ量の燃料なら、コベルコ建機のショベルは他社製品よりも長く動きます。それを考えると、見えないところでより貢献していると思えました。

程:私は大学を卒業してからずっとコベルコ建機グループでしか働いていませんが、普段から人を大切にする会社だと感じていました。それが震災支援のときに発揮されたと感じます。成都など近くの町を基点にして支援をした企業は多いと思いますが、現場に部品や機械を持ち込んで、泊り込みで建機のサポートに当たったのはわが社ならではじゃないかと思います。

将:コベルコ建機グループはもともと低燃費やエコなど、環境意識が高い会社ですが、私自身はあまり気にしていなかったんです。でも震災をきっかけに、人や環境について考えるようになりました。CSR委員会もできましたし、今後は何かあれば、もっと万全な体制で支援ができると思います。

団結力と使命感で迅速な再稼働へ

多くのメーカーが工場復旧に難航した成都で、いち早く再稼働を果たした神鋼建機(中国)有限公司。
現場を牽引したリーダーたちが当時の様子を語った。

左から
神鋼建機(中国)有限公司 工場長 敬霊
常務 副総経理 李平
副総経理 李祥富

常務副総経理・李平、副総経理・李祥富(当時:工場長)、工場長・敬霊(当時:組立課長)が震災を振り返る。

初めて経験した地震の恐怖

震災時はどんな状況でしたか?

李祥富:私は事務所にいました。ちょうど目の前が駐機場だったので、地震が起きた瞬間は機械の振動だと思ったんです。でも揺れが続いて、これはおかしい!と。地震だと気がついて急いで外に逃げました。池が波打っているのを見てゾッとしました。

  敬:揺れたのは、日本人スタッフと一緒に打ち合わせをしている最中でした。地震の体験がなかったので、車がぶつかったのかと。日本人が机の下に潜るのを見て、私も真似をしたのですが、建物がガタガタ揺れて怖かった。崩れるかと思いました。揺れが長く、あまりに危険なので全員野外に。結局、倒壊はなかったのですが、外壁が剥げ落ちたところがありました。

 李平:震災時、私は入院中で会社にはいなかったのですが、適宜、連絡や報告を受けていました。

仲間への配慮と連携

避難後の対応を教えてください。

  敬:まずは高い建物から離れたところに集まって、社員全員が揃っているか、怪我はないかを確認しました。余震が続いていたので動くのは危ないと判断して、しばらく待機。お互いにいたわりながら、2時間くらいでしょうか。その間に管理職が集まって話し合いました。

李祥富:電話もインターネットもつながらず、状況が全く分からなかったので、その場で対策チームをつくって、それ以外の社員は全員帰宅してもらいました。残ったのは各部署のリーダーと、設備の担当者、安全管理の担当者で、30人くらいですね。

安全に統率できましたか?

  敬:みんな慌ててはいましたが、一番最初の動きは自然に生まれたように思います。仲間の安全確認などは、指示しなくとも社員が互いにやり始めていましたね。それから全体で改めて確認すると同時に、二次災害を防ぐために工場のガスや高圧電源を切りました。

李祥富:取り乱すこともなく、団結のようなものがありました。帰宅後は、社員には一旦、3日間休んでもらい、家や家族、身近な人のケアをしてもらうようにして、その間に対策チームが状況把握と社内外の対応を進めました。

工場再稼働へのステップ

対策チームの動きは?

李祥富:翌朝から取り組んだのが、被災エリアの代理店やユーザーの被害状況の確認と、出荷済みの全機械の故障やトラブルなどの調査です。被災地では建機は命綱ですから最優先事項のひとつでした。

  敬:対策本部を体育館に設置して、交代で泊まり込みました。避難所も兼ねたので、怖くて家で寝られないという社員や家族も20~30人くらい泊まっていましたね。夜間のパトロールは、震災直後から6月上旬まで続けました。

李祥富:工場の復旧については、建物の安全を確認して、工場設備の安全と機能を調査・調整が主です。急ぎましたけど、丸2日かかりました。

  敬:一刻でも早くを目指しつつ、品質を保つ設備は特に神経を使いました。いかなるときでも品質を維持しなくてはいけないですから、設備メーカーからもスタッフを何人か派遣してもらって総点検。設置済みのものを調べるのは、新しく設置するより難しいのです。

メーカーとしての使命

役員の立場から工場再開についての考えを聞かせてください。

 李平:被災地支援に建機はなくてはなりません。被災地に近いからこそ、被災地のニーズに素早く応えられるよう、つくり続ける必要があります。被災地の支援はコベルコ建機グループとして進めていましたので、我われは工場の再稼働に最大限の努力をしました。

李祥富:社員にも、工場としての責任や使命を理解してもらえるように働きかけ、どんどん士気が高まっていきました。“1台でも多く!”は社員の総意だったと思います。

 李平:また、震災時の最優先は人命ですが、生活の復興のためには経済的な復興が欠かせません。メーカーとして、工場を再稼働させ、経済活動を復旧させることは使命だと思っています。

李祥富:私は阪神大震災のときに日本にいたんです。そのとき神戸製鋼所は、自社の被災で一部製品がつくれないときも、他社から仕入れて、受注したものを納品しました。たとえ損失が出たとしても、通常に近い取り引きをすることで、経済を普通に回そうということでした。それも心に残っていました。

思いやりのある企業風土

改めて振り返ってみて、どう感じますか?

 李平:コベルコ建機グループは被災地支援もいち早く対応して、市からも表彰されています。社員が自主的に集めた募金もかなり大きな額でした。コベルコ建機グループの中にある団結力や、他者を思う姿勢を改めて感じています。

  敬:指示や連携はスムーズでしたし、一致団結して協力し合ったからこその素早い復旧だったと思います。社員同士の団結がさらに強くなったのは大きな財産です。

李祥富:直接的な災害支援ではないですが、工場として復興へつなげるための役割を果たすことができました。会社は被災した社員やサプライヤーにも援助をしていて、社内はもちろん関係企業や地域社会にも、配慮ややさしさがあります。

 李平:社内外からの信頼がより高くなったと感じますね。感謝の声も多くいただきました。加えて、社員に社会貢献への気持ちが強くなったと思います。震災を機にCSR委員会もできて、大学や小学校などへの支援が継続しています。これからも人や社会にやさしい会社として、地域と共存・共栄していきたいと思います。